自分の立ち位置を知ること。 [その他]
<あなたの生活環境>の確認は、とても大事です。なぜなら、あなたを必要とする介護される人にとっては、あなたの人生があなたにとってどんなに大事なものだと頭では分かっていても、その人生よりも自分を優先して欲しいし、あなたの助けなしには生活できない状態かもしれないからです。
その場合、あなたはどうしたいですか?介護したせいで、自分の人生を台無しにした、介護しなかったことを後悔した、そんな気持ちを持ちたいですか?あなたの生活環境を知る理由は、あなたが介護される人の生活と自分の生活を認識し、自分がどのように関わっていくのか、関わりたいのかを、自分で決めるためです。
mizumiuの経験を言うと、介護生活に入る前のmizumiuは、研究職に就くつもりで普通よりも長い学生生活を送っていました。大学から離れて仕事に就いたりして生活費を稼ぎ、アルバイトしながら研究を続けていました。留学しようと資金を貯めたのですが、留学している間下宿先を借り続ける資金は準備出来なかったので、一度、親元に帰りました。ですが家の中にmizumiuの居場所は物理的になかったので、部屋を片付けて、自分の場所を作ったりしてました。
それまでの生活が結構ハードだったこともあり、少しゆっくりするつもりで、だらだらとしていました。すでに父には認知症の症状が出ていたので、父の通院を手伝ったり、母の用事につきあったりして過ごしていました。その頃は妹も同居していました。留学先は夏学期からにするか冬学期からにするかで出発時間も変わってきます。留学する予定でいたので、定職に就かずにいました。
母が倒れた時、認知症の父は身の回りのことが出来なかったし、徘徊もありました。妹は仕事があったので、介護するキーパーソンはmizumiuになりました。突然、介護する立場になったのです。留学があるから、介護はしないという選択はしませんでした。これはmizumiuの選択です。研究に没頭する自覚が揺らいでいたのも事実ですが、それよりも何よりも、母が倒れてから、自分のことをする時間はありませんでした。母だけならまだしも、認知症の父が家にいるので、必死でした。
mizumiuは父と母のせいで留学を断念したとは言ったこともないですし、留学しなかったことを後悔してはいません。留学と言っても、短期の語学留学や交換留学のような期間の決まっている留学ではなく、博士号を取るための論文を書くために、大学院の博士課程へ留学する予定でした。一年半くらいは生活できる資金も貯めていて、受け入れ先の教授との書面のやり取りも済ませてあり、mizumiuの体がそこへ行けばいいだけの状態だったのです。それでも行かなかったのは、その当時の留学への情熱が目の前の介護よりも小さかったということです。
一度、ずっと折り合いの悪かった長姉に、「留学するのを先延ばしにしていたのは、お前だ。行きたかったら、とっくに行っているわ!」と吐き捨てるように言われたことがあります。次姉のアメリカ人の旦那には、「いつ留学するんだ?」と、自分たちは介護には一切関わろうとしないのに、介護をして留学に行こうとしないmizumiuを理解できないというようなことを何度か言われました。
長姉は、母が倒れた当時の状況を知りません。自身問題を抱えていたし、とにかく、毒を吐く人でした。次姉たちも文化の違いもありますが、それを超えてmizumiuを理解しようとか協力しようとかいうことはなく、それどころか、ベビーシッターを頼まれたり、大きな二匹の犬の世話を押し付けられたりしました。介護について書いていると、こういうことを思い出し、まだ少し痛みを感じます。でも、今、目の前にいない人のことで気を病むのは時間がもったないから、ブログを続けます。いずれ、兄弟姉妹との関係についても書くことになりますから。
その場合、あなたはどうしたいですか?介護したせいで、自分の人生を台無しにした、介護しなかったことを後悔した、そんな気持ちを持ちたいですか?あなたの生活環境を知る理由は、あなたが介護される人の生活と自分の生活を認識し、自分がどのように関わっていくのか、関わりたいのかを、自分で決めるためです。
mizumiuの経験を言うと、介護生活に入る前のmizumiuは、研究職に就くつもりで普通よりも長い学生生活を送っていました。大学から離れて仕事に就いたりして生活費を稼ぎ、アルバイトしながら研究を続けていました。留学しようと資金を貯めたのですが、留学している間下宿先を借り続ける資金は準備出来なかったので、一度、親元に帰りました。ですが家の中にmizumiuの居場所は物理的になかったので、部屋を片付けて、自分の場所を作ったりしてました。
それまでの生活が結構ハードだったこともあり、少しゆっくりするつもりで、だらだらとしていました。すでに父には認知症の症状が出ていたので、父の通院を手伝ったり、母の用事につきあったりして過ごしていました。その頃は妹も同居していました。留学先は夏学期からにするか冬学期からにするかで出発時間も変わってきます。留学する予定でいたので、定職に就かずにいました。
母が倒れた時、認知症の父は身の回りのことが出来なかったし、徘徊もありました。妹は仕事があったので、介護するキーパーソンはmizumiuになりました。突然、介護する立場になったのです。留学があるから、介護はしないという選択はしませんでした。これはmizumiuの選択です。研究に没頭する自覚が揺らいでいたのも事実ですが、それよりも何よりも、母が倒れてから、自分のことをする時間はありませんでした。母だけならまだしも、認知症の父が家にいるので、必死でした。
mizumiuは父と母のせいで留学を断念したとは言ったこともないですし、留学しなかったことを後悔してはいません。留学と言っても、短期の語学留学や交換留学のような期間の決まっている留学ではなく、博士号を取るための論文を書くために、大学院の博士課程へ留学する予定でした。一年半くらいは生活できる資金も貯めていて、受け入れ先の教授との書面のやり取りも済ませてあり、mizumiuの体がそこへ行けばいいだけの状態だったのです。それでも行かなかったのは、その当時の留学への情熱が目の前の介護よりも小さかったということです。
一度、ずっと折り合いの悪かった長姉に、「留学するのを先延ばしにしていたのは、お前だ。行きたかったら、とっくに行っているわ!」と吐き捨てるように言われたことがあります。次姉のアメリカ人の旦那には、「いつ留学するんだ?」と、自分たちは介護には一切関わろうとしないのに、介護をして留学に行こうとしないmizumiuを理解できないというようなことを何度か言われました。
長姉は、母が倒れた当時の状況を知りません。自身問題を抱えていたし、とにかく、毒を吐く人でした。次姉たちも文化の違いもありますが、それを超えてmizumiuを理解しようとか協力しようとかいうことはなく、それどころか、ベビーシッターを頼まれたり、大きな二匹の犬の世話を押し付けられたりしました。介護について書いていると、こういうことを思い出し、まだ少し痛みを感じます。でも、今、目の前にいない人のことで気を病むのは時間がもったないから、ブログを続けます。いずれ、兄弟姉妹との関係についても書くことになりますから。
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